島津義弘「ステガマリ戦法」

島津義弘「ステガマリ戦法」

島津義弘は義久の弟で十七代当主、と言われていたが実は家督を継いではいなかったという。惣領義久を中心として、智謀の歳久、兵術の家久とともに、武略の義弘と呼ばれ、島津氏による九州統一に尽くした。この義弘の名を不動のものにしたのが、関が原の戦いにおける撤退ぶりである。全滅覚悟で主君を逃がすという凄惨なステガマリ戦法で敵軍の正面を突破、千五百いた兵は八十に減ったという。帰国後、義弘は自らの蔵入地を削って、彼らに報いた。