石川数正「突如出奔の理由」
一五四九年、人質竹千代(家康)の駿府行に同行して以来の忠臣であり、戦略家として数々の武功を立てた。また、徳川家家老として外交を担当、ことに秀吉相手の窓口は彼が務めていた。賤ヶ岳の戦勝祝いに「唐物初花肩衝」を贈ったのも、秀吉・信雄講和成立時の祝賀使者も、数正である。それが小牧・長久手戦後処理の最中である一五八五年一一月、突如秀吉のもとに走り人々を驚かせた。原因は反秀吉の気風高まる家内で、和睦派として孤立したからだと思われる。家康の動揺は深刻で、軍制を旧武田流を参考に大改変する契機となった。